
秀吉のふるさとでもある中村。その中村区下中村町にある真宗大谷派の正賢寺は秀吉との深い関係がありました。ここ正賢寺と秀吉とのつながりは『当寺代々住持明日帳』を見ると明らかになります。
『当寺代々住持明日帳』には、第三代住職として、教秀の名前があり、彼は太閤秀吉の娘(あね)の子と書かれています。秀吉の娘といえば日秀一人であり、夫婦には3人の男の子がいたが教秀を名乗る者はいません。
ところがこのお寺では異例の扱いを受けており、宝暦8年には百回忌の法要が特別に営まれました。このことは三代住職の教秀が秀吉の娘の子だったというのが関係しているのでしょうか。
また、『当寺代々住持明日帳』によると、もともと天台宗だったこのお寺も二代目住職祐念のときに東へ100メートルほどいったところの現在地に移転しました。
第三代住職教秀のあとには守賢が登場し、正賢寺は檀家さんも下中村、中中村と広げまして、急にこの地方指折りの格式高い寺へと変わっていきました。これらのことも秀吉の娘の子という教秀が関係しているのでしょうか。現在も正確なことはわかっていません。
また、家康が天下を取ると正賢寺では秀吉関係の遺物や宝物が没収されました。今現在残っているのはわずかしかありません。
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